ロックンロールは鳴り止まないっ

 

若者あるあるかもしれないが、知った時にはもうこの世にいなかったというような人が何人もいる。


不可思議/wonderboyも初めて知ったのはここ数年のことだし、ともちゃん9さいも亡くなってしばらく経ってから初めて聴いた。何年も前の動画をYouTubeで漁ったり、今更CDを買ってきては通勤のおともにする。彼らが生きていた頃はぼくはまだ文字通りのひよっこだったので、リアルタイムで聴いていたのなら可愛げが無さすぎる。


それでもやっぱり生きているうちに知りたかったとは思うし、この目で見たかったとも、どうにかして好きを伝えられたらよかったなとも何度も思った。リアルタイムで見ていたという大人たちを見るたび、悔しくて仕方なかった。もう少し早く生まれていたら。


だがそういうことの全てが、彼らの作品の前には全てどうでもよくなるのだ。突き詰めれば、感動にタイムラグなどないと思う。彼らが命を削って伝えたかったことは、そんなことではないだろう。彼らが命を削って伝えたことは、心の前では色あせたりしない。表現とはそういうものだということに、ぼくは気付いた。そして表現に取り憑かれてしまった。


だからこそ、現在進行形で動いている人を好きであることは奇跡に近いと思う。新旧問わず良いものは良いのスタンスで生きている。


出会うべきときに出会うべき人に出会う。ぼくらがそう思うだけで本当はそうではなかったとしても、その時その時でそばにいてくれる人たちに助けられて生きていて、その人たちもやがて去ってしまうということは何らおかしいことではない。でもその時にその人に助けられて何歩か歩いた道のりがあることは確かだ。


初めてYouTubeの関連動画から不可思議/wonderboyの動画を開いたときは、まだそこまで良さに気付けなかった。そのあとで仕事やらなんやらでちょっと大変だった時期に、もう一度聴いた。その時がまさに出会うべきときだった。これはぼくのことだと思った。「ロックンロールは鳴り止まないっ」というのは、決して大げさなことではない。


ぼくはいつも良いものを良いと気付くのに時間がかかってしまう。ぼくはamazarashiが大好きだけれど、最初に聴いた時は好きだとは思わなかった。結局は馬鹿だから、その人の人生に触れるまでたくさん聴かないと分からないんだ。でも触れたらすぐだ。そうやって今では、初期の頃の曲ばかり聴いている。リアルタイムで聴いてみたかったなぁ。当時ぼくランドセル背負ってるけど。


リアルタイムで見ていたと言った大人たちは、今、リアルタイムだった頃の影を追うことしかできないからそういうことを言ったんだ。対するぼくは自由だ。不可思議/wonderboyが、ともちゃん9さいが今この世にいなくても、ぼくたちは心同士で出会ったから。そう思う人がいる限り、彼らは生きている。ぼくもいつかそうなりたい。


朝-あした-という冊子を出してます。

短歌と俳句と写真と色々です。

今のところは二冊、がっつり無料配布です。

まだぼくたちのこと知らなかった!という人〜。全然遅くないですよ。むしろまだ序章です。声かけてくれたら郵送でもなんでもしますので、騙されたと思って読んでみてください。正直すぎて腰が抜けます。f:id:hopeisnotyet:20200109232539j:image